少女時代・荒野のような時代 Part 2
私の人生は大きく分けると3つの時代に区切ることができると思います。第一は少女時代、第二は神を信じないゆえの荒野のような時代、第三はクリスチャンになってから現在までです。 大きい写真
少女時代
少女時代は、母が病弱でしたが全く平和な家庭で、両親の愛情の中、温室で育てられました。しかしそんな私に突然2人の死が襲ってきたのです。女学校3年生の時父が十二指腸潰瘍で、また翌年姉が肺浸潤で相次いで亡くなりました。平和なとても楽しかった家庭なのに2年間で愛する父と姉が亡くなったのです。楽しく明るかった家庭から笑い声や明るさは消えていきました。
父と姉が天国へ
でも2人ともイエス様を信じていましたので、天国に行けるという確信をもっていたようです。しかし私はまだ信じていませんでした。ですから「神は愛なり」と言う神様なら「なぜ父が死んだの」「大好きな姉までなぜこんなに若いのに(20歳でした)取りあげるの」と心に疑問を抱きました。
しかしこの時こそ神様は私に語りかけようとしておられたのでしょう。でもしばらくするとその死の悲しみさえも消え忘れていきました。そして楽しい女学校生活を送りました。
やりがいのある仕事
女学校を卒業してすぐに、父の友人が経営する大阪市営バスの部品を扱っている会社で働き、夜間に洋裁学校でデザインの勉強をしました。3年間勉強した後、洋服業界に移り既製服の作品作りを始めました。その仕事は洋服の見本を作り、営業担当にその作品が売れるかどうかを見てもらって売れ筋を見極めてから量産に移るというものでした。
またファッションショーで自分のデザインした作品をモデルさんが身につけているのを見ると気分はとても高揚したものでした。その作品が消費者にどのように評価されるか少々怖くもありましたが、それだけにやりがいもありました。
荒野のような時代
その頃、日曜日には教会に通ってはいましたが、名ばかりのクリスチャンで今から思えば信仰というものは全くありませんでした。その教会の中に気になる男性がいて牧師のお世話で結婚することになったのです。私が22歳の時でした。結婚後、子供が1人与えられ、同居していた母と主人と娘の家族4人で本当に幸せな生活が続きました。
ところがそのような生活も長くは続きません。主人と母の折り合いが次第に悪くなり、母との別居の話が出るようになりました。病弱な母を1人残して家を出ることはあまりにも辛くて、悩みに悩みました。そうこうしている内に主人は家を出て行ってしまったのです。
娘は3歳になっていました。私は仕事を持っていましたので母に娘をあずけ仕事に出ておりました。それでも女3人、人並みの楽しい生活が続き感謝な日々でした。ところが娘が4年生の時、今度は母が胃がんと診断され手術もできないほどの手遅れ状態でした。
母の最期の祈り
母はモルヒネで痛みをコントロールされて眠るように天国に戻りました。61歳でした。母にとっては痛みも苦しみもなくイエス様のところに戻れたのは幸いだったと思います。ただ残して行く私たちのことは心配でならなかったでしょう。病床で母は最期の力を振り絞って祈ってくれていました。私が今も守られてこのようなイエス様を信じる幸いな歩みができますのはきっと母のこの祈りがあったゆえだと心から思っています。
でもそれからは母と子の2人、そして4年生になった娘を育てるために仕事と家庭とに必死にならざるを得ませんでした。そんなわけで私は全く教会へも行かず、神様の存在などはもうどうでもよく、今の私には全く関係のないことと思う状況でした。当然イエス様のことを考えることもなく、ただ精神的にも肉体的にも疲れきっていた毎日でした。
娘がクリスチャンに
無我夢中で生活している間に娘も大きくなり高校に通うようになりました。幸いにもその学校の担任の先生が熱心なクリスチャンでした。娘は放課後に行われていたバイブル・サークルに集うようになり、また日曜日にもその担任の先生のおられた和泉市にあった集会に通うようになりました。そして高校1年の夏に娘はイエス様を救い主と信じクリスチャンになったのです。
その娘を通して私がどのようにクリスチャンになったかを次回にお話ししたいと思います。……(つづく)
連載「義母の召天に思うこと」−日下敏彦−
No.1 天国に召された義母(はは)
連載「生きる」 激動の時代を生きる −千恵子抄−
No.1 出生・大東亜戦争・原爆投下と終戦
No.2 少女時代・荒野のような時代
No.3 再臨のこと・聖書の奇蹟・そして救い
No.4 孫娘のこと・私の病気・主にある平安