天国に召された母
義母(はは)が記した「千恵子抄」を読み返しながら、双子の子供たちが生まれて同居した22年間のさまざまな出来事を思い起こし、主に感謝しています。義母(はは)がイエス・キリストのもと、天国に召され10カ月になります。夜、会社からの帰宅途中に必ず高田市立病院の横を通るのですが、暗闇のなか、所どころの病室に明かりが点灯しているのを見ては義母(はは)の入院時の姿が心に浮かびます。私には肉親との死別という経験をしたことがないこともあり、同居の義母(はは)の死が私たちに何をもたらすのか想像できませんでした。
母がホスピスへ
義母(はは)は大腸がんの末期(腹膜播種の状態で腹部全体に転移していました)でかなりの痛みがあり、口数が減り会話がなくなっていきました。それに加え心の中の「何事」かを心配していたようで体も心も苦しくて仕方なかったのだと思います。私たち夫婦と孫たちの前ではいつも気丈な姿しか見せなかった義母(はは)ですが、あまりにも痛みと衰弱が激しく家族の前でも気にせず横になり休むようになっていきました。以前から家内と奈良で唯一のホスピスへの入院を祈りながら考え、家内から義母(はは)に打診してもらったのですが、あまり良い返事は得られませんでした。ホスピスに行くならもう「家には帰れない」と思ったのだと思います。しばらくして、仕事中に家内から「母がホスピスに行くと言っています」というメールがきました。義母(はは)は決心したのだと思い胸が詰まりました。「死と対峙しようとしているのだと!」。もちろん義母(はは)は人間の誰しもに訪れる絶対的な「死」に対して解決を持たずに一人で向きあおうとしたのではありません。イエス・キリストにある絶対的な「救い」をもって「死」に向きあったのです。チャーミングな母
義母(はは)が抱えていた心の「何事」かのつっかえはホスピス転院時に取り去られたようです。心から信頼していたクリスチャンご夫妻がお見舞いをかねて交わりに来て下さいました。その時から「何事」かの心配は氷解したようでした。 以後、義母(はは)は見違えるように誰が見てもキリストにある幼子のようになっていきました。他集会の兄姉や多くの方々がお見舞いに来て下さいましたが、とても明るくすべてのものから解放された、前途に何の不安も憂いもない人のようでした。 主治医からは「今日、明日どういうことがあっても心の準備はしておいて下さい。そういう状態です」と言われていましたが、義母(はは)もそのことは知っていたのですが日に日に明るく軽やかな幼子ぶりを発揮していきました。81才なのにとてもチャーミングな茶目っけぶりでした。おかげで私自身は、会社帰りに体は疲れているのですが病室に行くのがとても楽しみでした。 痛みはモルヒネでコントロールされていましたが衰弱しきっていました。でもその義母(はは)とのほんのわずかな会話がとても楽しかったのです。ある時病室で何かの失敗をして「私は本当にあほやなぁ~」とぽつんとつぶやいたら、眠っていると思っていた義母(はは)が私のことを心配してくれたのでしょうか、わたしに向かって「あほちゃうよっ、あほを頭から追い出したげたら賢くなるよ。」と言うのです。思わず大笑いしながら「おばあちゃん、ありがとうねっ!」と言いました。万事がこういう会話でした。救いの約束の確かさ
義母(はは)が召される数日前がこんな調子でしたので、召された時は天国に引っ越したような感じでした。多くのクリスチャンの方々の祈りに支えられたのだと思います。病室には私たちの主、イエスさまがご臨在してくださっていました。「死ぬものが不死を着る時『死は勝利にのまれた』としるされているみことばが実現します」(聖書)。
義母(はは)の死は、キリストが与えて下さった「救い」に飲み込まれたというのが実感でした。私たちへ、遺言のようにキリストの救いの約束の確かさを教えてくれて先に天に帰ったのです。 そして私自身の、3才の頃の最初の記憶もまた「死」でした。それは九州の福岡にいた祖母の死。その死の記憶は子供心のわたしにも、悲しく寂しく暗いものでした。その両者の「死」の違いに、もう一度聖書が語る福音のもつ希望を考えないわけにはいきませんでした。
(つづく)
連載「義母の召天に思うこと」−日下敏彦−
No.1 天国に召された義母(はは)
連載「生きる」 激動の時代を生きる −千恵子抄−
No.1 出生・大東亜戦争・原爆投下と終戦
No.2 少女時代・荒野のような時代
No.3 再臨のこと・聖書の奇蹟・そして救い
No.4 孫娘のこと・私の病気・主にある平安